Mar. 16 / 2021

 私の人生 学ぶ、働く、安らぐ 1幕 第1ステージ 

 

今思う、振り返ると長いようで短い道のり、あっという間の80年の歳月だった。今、人生の第3ステージ

私の歩んで来た道を振り返り、残された日々を思う・・・ 第4稿 2021/02/28 記

 

私の人生 第1ステージ 「めざめ」 音楽の楽しみ 1940年~1963

 

 私は1940年昭和15822日、194112月に太平洋戦争が米パールハーバーで始まる前年、池田熊雄、達子の長男として神戸市灘区篠原中町で生まれた。父はその頃日本領だった韓国の群山で生まれ旅順の工科大学で冶金学を学び住友製鉄に入社母の佐々木達子と結婚して私が生まれた。母はその頃日本領であった台湾の台北市で生まれたが、母は長じて福岡の女専を出て大阪のウイルミナ女学院の国語の教師に就いていたところ父の賢治の友人の世話で熊雄と結婚した。私が生まれるとすぐ父は旅順の製鉄所に勤務、私と母も共に中国大連に渡ったが3歳の頃には戦争が激しくなって帰国し兵庫県西宮市に移り住んだ。昭和181月二男の弟正徳はそこで生まれた。戦争がますます激しくなって一家は父の故郷九州の佐賀県鹿島市(その頃は藤津郡浜町)に疎開した。敗戦後の昭和213月三男の弟桂一がそこで生まれた。私が6歳小学校に入学の頃終戦の日も過ぎて父は福岡市の西南学院高等学校の理科の職を得、福岡市に引っ越しした。昭和24822日、私と同じ誕生日の日に四男で9歳年下の末弟の光司が生まれた。父は若い頃から身体が弱く結核を患っていたようで、この福岡で病気が再発し光司が生まれた時には結核病院に入院していた。父が働けなくなり母は仕方なく子供たちを家に残して祖父譲りの得意の英語力と国語の知識を生かして福岡市郊外駐留米軍板付基地で日本語教師の職を得て米軍の主婦を中心に日本語を教え私たち4人を育ててくれた。私が高等学校に入る頃父は反対したが米軍基地で知りあった小学校教師ジャネットLウォードさん、日本が好きになったジャネットさんが日本に住みたいと思われ私たちを育てるお手伝いをするから一緒に暮らしましょう、との提案があって母は子供達の教育のため父と別れて関西へ出る決心をした。大阪ではかって学校卒業後に勤めていた大阪女学院中高部の教師の職に就き、ジャネットさんと共に関西に住むことになった。ジャネットさんは私たち兄弟4人を親身になって可愛がって下さり教育を受ける手伝いをして下さった。私は転居後初めは宝塚に住んだので校区の兵庫県立伊丹高校に転入学し京都の同志社大学へと進み、弟の3人は中学、高校、大学と一貫したミッションスクール教育を西宮の関西学院で受けさせて貰った。ジャネットさんの力添えと信仰深いクリスチャンの母の努力がなければ私たち兄弟はこうした立派な教育を受けることが出来なかっただろう。父は長らく福岡の国立病院で結核の治療をしていたが、そのうち後を追うように神戸に出て来た。つてを頼って神戸市での仕事を得、私たち子供たちの近くに住み働いたが、大きくなった私たち子供とは終生共に暮らすことはなかった。

 

                       1

 

 私の人生の恩人ジャネットウォードさんから頂いたものは高度の教育を受けるチャンスだけではなかった。声が奇麗で音楽が好きなジャネットさんは私たちに色々な事を、そして母はクリスチャンの信仰を通じて音楽を身近にしてくれた。特にジャネットさんが私に与えてくれた物、それが音楽の楽しみで、高校生の時にクラリネットに興味を持った私の為に高価な楽器を買って下さり、それで以て伊丹高校のブラスバンドに入り音楽に楽しんだ。長じて大学に進みそこでも勉学と共に音楽活動に熱中する学生時代を送らせて貰った。大学では文学部文化学科美学および芸術学専攻で主に音楽美学を学んだが同時に同志社大学ではオーケストラ部活動、それにマンドリンクラブでのエキストラ部員としてのクラリネットパートの担当として4年間は忙しい日々であった。京都や大阪それに地方で、と学生バンドでは様々な経験をさせて貰った。就職のときには音楽で身を立てられたら幸せ、職業演奏家になどと夢見たが、家庭の事情はそれを許して貰えなかった。止むなく文系の学生の門といえるマスコミを目指し、産経新聞社や関西テレビ放送などのマスコミを受験、関西テレビに就職出来、38年間、60歳まで大過なく生きて来た。その間結婚した妻の千恵子の力添えも加わり幸せな人生だったと今も感謝でいっぱいだ。大学までの教育を受けさせて頂けたのはジャネットさんの力添えのお陰だが、音楽の楽しみに目覚めさせられたのもジャネットさんのお陰である。映画や音楽鑑賞が好きなジャネットさんのお陰で中学の頃に米国映画「ベニー・グッドマン物語」それからディズニー映画の「ファンタジア」や「ウエストサイド物語」等のミュージカルや音楽映画など、沢山の良質な音楽に親しみ、私の音楽への熱中は留めがなかった。正にジャネットさんは私に音楽の楽しみを覚醒して下さった恩人と言える。この導きで人生が豊かで楽しいものとなった。

 ジャネット・ウォードさんは大正61917810日アメリカ合衆国ニューイングランドの生まれ、平成11317日神戸で亡くなった。81歳だった。父上はその地方の小学校の校長さんだったが、お父上の後を追って教職に就かれた。生みの母親は早く亡くなられで継母と腹違いの妹さんが一人いたが、継母に当たる方と上手くいかず終戦後日本の駐留軍の教師として遠くニューイングランドから福岡県板付基地に赴任され小学校で教鞭を取られていた。米国を捨てられて日本が好きになられ、北海道の大学生の浅川修二さんという方の大学教育のお手伝いの資金提供もされていたが、同時に母の達子と知り合ってその子育て、教育を受ける苦労を助けるために私たちと住む決意をされたがアメリカには終生帰られることがなかった。

ひ弱な文学好きの少年に音楽の楽しみを教えて下さり高校1年の時に一緒に住むことになったが、当時は英語の勉強もあまり出来なかった私、英語やアメリカ、とくに音楽の楽しみを教えて下さった。それに熱心なクリスチャンのジャネットさんは関西の学校で多くの子供たちや学生、社会人に英語教育を通して様々な貢献をされた。神戸の甲南女子大学の教授として英会話と音楽の楽しみを広げられた。それに加えて私たち4人兄弟に高度の教育を受けるチャンスを下さった、それらのことは何よりのものだった。

 

さて、今思う、私の人生には3っのステージがある、と思う。

 

                       2

 

私の人生の第一ステージは生れてから大学を出るまでの22年、就学と卒業就職するまで、音楽に目覚め音楽の楽しみを知り、音楽に関わった人生を送りたいと願った時期、そして私の第二のステージは前期の20年と後期の18年、音楽の楽しみを生かして働く、モノづくりを楽しむ38年、第三ステージは実業を卒業して現在までの20年プラスアルファ、伴侶との静かな日々、である。会社を卒業してからパソコンを覚えてブログ作りを楽しみ、音楽に耳を傾けながらホームページ作りに熱中してきた20年だ。

私が音楽に親しみ始めたは小学生の頃、私は声の奇麗な少年だったが戦後の物がない時代、やっと手にしたハーモニカに夢中になった.声変わりの頃、父親と同じようなかすれ声になってしまって音楽から遠ざかってそれ以来勉強に集中した。西南学院の中学生時代は文学に興味を持ち星新一からイアン・フレミング、夏目漱石からヘミングウェイまで、中学時代は読書に夢中になって音楽とは無縁になっていたのだが高校へ進む頃から次第にクラシックに興味を持ち、高校時代にブラスバンドで音楽を楽しんだりレコード音楽鑑賞などで広いジャンルの音楽に親しんだ。クラシックではモーツアルトのクラリネット協奏曲や五重奏、ピアノ協奏曲や交響曲、ベートーベンの交響曲やショパンのピアノ曲、それらが特に好きなクラシック音楽だった。自分のクラリネットでそれらを楽しむことも覚えた。ジャズも好んで聞いた。グッドマンに始まりサッチモに、、、。あらゆる音楽に親しんだことは大学卒業後の職業選択の大きな力で、私の一生の楽しみとなった。

 

                         3

 

          私の人生の第2ステージ、働く・・・ 第2の人生 1963年~2000

 

1963年昭和 383月 同志社大学文学部文化学科美学芸術学専攻を卒業

1963年昭和 384月 関西テレビ入社、関西アートセンター制作部オーディオ課に配属

           この年アニメ「鉄腕アトム」が系列のフジテレビで放送を開始

       38年   「宝塚民話劇場」等のドラマの効果のアシスタント 以後の番組では効果チーフ

1964年昭和 39年    ドラマ「ぼけなす人生」 中田ダイマル・ラケット の音響効果チーフ担当

      40年    ドラマ「巳年のふぐはよく当たる」 浪花千栄子 山茶花究

            ドラマ「京の川」 中村玉緒 山茶花究 夏目俊二

    スポーツ番組「競馬ダイジェスト」(フィルムで OnAir S65~S81)

      41年     ドラマ「元旦一泊二日」 中村鴈次郎 南都雄二 藤岡琢也

      ドラマ「山本周五郎アワー」 中村玉緒 東千代之介 香川京子

    ドラマ「土性っ骨」全17回 平井昌一 山茶花究 最高視聴率が36.7

      42年    ドラマ「うどん」全17回 松山容子 大友柳太郎 森乃福郎 高視聴率

      44年    ドラマ「赤ん坊夫人」 京マチ子 天知茂 高橋悦史

1970年昭和 45年    バラエテイ「万国博 味じまん・お国じまん」

      46年    ドキュメンタリー 「母と地球」 民放賞銅賞受賞

      47年    ドキュメンタリー 「冬の海」 民放賞最優秀賞

           ドラマ「父子鷹」 若林豪 音無美紀子 島田正吾 関口宏

           ドラマ「おとこ鷹」 若林豪 浜畑賢吉 渡辺美佐子 岸部シロー

      48年    関西アートセンターがケーエーシーと社名変更

1973年昭和 48年    結婚 

      48年    ドラマ「どてらい男(やつ)」 高視聴率の長い期間の放送作品

           西郷輝彦 田村亮 由美かおる 本郷功次郎 大村崑 高田次郎

           沢村忠雄 中村メイ子 「うどん」「土性骨」とこの3作品は高視聴率根性ドラマ

            このドラマを最後に現場スタッフを卒業

      50年    株関西テレビ放送から株ケーエーシーに転属

      543月  米国一周テレビ局研修1カ月旅行

1981年昭和 56年    株エイトプロダクションに異動

      59年    ワイドショー 「奥様リビング」 ディレクター

      60年                   「ほっとタイム」 ディレクター

      60年           「ワイドショーWHO」 ディレクター

      61年     大阪府医師提供会医学番組 「がんばれ実年」 プロデューサー、ディレクター

      64年      大阪市提供広報番組 「マイ大阪」 プロデューサー

                               テレビVCM多数制作

 

                        4

                  

1989年平成 1年   バラエテイ「ふるさとZIP 探偵団」プロデューサー

      4年     ハイビジョン番組「LOVE・愛」 海外コンクール出場

1993年平成 5年     株)関西テレビアートセンターへ異動

1994年平成 6年     株)関西テレビ放送ソフトセンター部へ異動

1995年平成 7年     阪神大震災

     平成 7年      文字放送部へ異動

   平成 9年     株)オクトへ異動

   平成10年     )関西テレビ制作部へ異動

          ワイドショー 「4時きん」 プロデューサー

   平成12年    「おしゃれな夕はん」 ディレクター、プロデューサー

 

           そのほか多数のドラマやドキュメントなどを担当したがその一部をご覧戴いた。 

2000年平成12822日 株関西テレビ放送を退職

 

        ドラマ効果担当の頃の思い出、沢山の女優さんと仕事をしたが、一寸あげて見ると

         ミヤコ蝶々、水戸光子、山東昭子、鳳八千代、野川由美子、吉村実子、園佳也子、

         中宗根美樹、青山京子、久保菜穂子、高千穂ひづる、新珠三千代、淀かほる、       

          那智わたる、天津乙女、茅島成美、井上八千代、弘田三枝子、倍賞千恵子、

          坂本スミ子、荒木雅子、高森和子、朝丘雪路、かしまし娘、淡島千景 などなど

        これらの女優さんは入社した年1963(昭和38)年効果のセカンドとしてスタジオで一緒した

 

思えば23歳で就職して60歳で卒業するまでの38年間、始まって間もない民放テレビの世界で遮二無二働いた。関西テレビの開局5年目の入社、スタジオが未だモノクロ、生放送の時代からフィルムやビデオのオン・エアからカラー放送へと発展していったがそれらのすべてを経験し、音響効果マンからディレクター、プロデューサーと制作畑の様々な職務も経験、ドラマやドキュメント、ニュースやCMなどなどあらゆるテレビの仕事も経験した。優秀な成績も残した。楽しかった。苦しい時もあった。今思うとあっという間の出来事と思われる38年、沢山の人と出会った。今も続く交流。海のものとも山のものとも分からない青年が幼少期のテレビの世界で、家族も心配するようなひ弱そうな青年が必死で生きて来た。弱音を吐いて得られた仕事を投げ出すこともなかった。本当に今思うと色々あったが、よくここまで過ごして来れたと思うばかりだ。

 

 イースター、復活祭の日、毎年亡くなった母の母教会、六甲山の麓の神戸聖書教会で行われるイースター礼拝に出席するが、その日の午後は鵯越にある教会の墓地での墓前礼拝に参加することもこのところのならわしとなっている。これとは別に千恵子と共に毎年墓参りに行っているが、千恵子の昨年の心臓の病気でもう山道を登って行けそうにない、それにコロナ感染の恐れから、教会も墓前礼拝を持つことを中止していて霊廟の扉を開き中に祀られている母やジャネットさんの遺影と遺骨に祈りをささげることも昨年から出来なくなった。ここの霊廟には父の遺骨はなく、母と共にジャネットさんの遺骨も納めてある。ジャネットさんは神戸で亡くなり、この教会の会員として母より早く天国に行かれて母と共に今もこの霊廟にある。私たちの父は彼の故郷の佐賀県鹿島市の浄土宗西宗寺に祖母のキチさんの遺骨と共に彼の遺言で納めてあるが、遠くにあって時折何年かに一度、墓参りに行っている。千恵子は心臓病の後遺症ですべてが適わぬ身となって残念だ。

 

           5

 

 思えば父は私の小学生の時に病気で入院したが、それ以後母に育てて貰い高等学校の頃に一緒に住み始めたジャネットさんがそれ以後の私の父のような存在になった。多分母の学校の教師の給料のみでは4人の子供に十分な教育を受けさせることが出来なかっただろうし、ジャネットさんの援助父代わりの力添えがあったからこそ私たち4人兄弟の今の暮らしはあるのだと痛感し感謝の気持ちでいっぱいだ。ジャネットさんは私たちの父のような存在であり、私たちには二人の父がいるようだ。ミス・ウォード、ジャネットさんは私に高度の教育を受ける機会を下さった、それともう一つ私には音楽の楽しみを教えて下さった。音楽それを業とする人生の扉を開けて下さり、それで以て私の人生は大いに充実した。

 私の人生の扉を開けてくださった人、私には父が二人いる。生みの親と育ての親、音楽の楽しみを知る世界を開いてくれたジャネットさん、私は音楽が昔も今もずっと好きで、今では一日中日米のFMラジオなどの音楽に耳を傾けて日々の暮らしを充実したものとしている。音楽の楽しみはジャネットさんが教えてくれたもので、感謝の気持ちでいっぱいだ。

 私は音楽が好きだ。一日中音楽につつまれて暮らしている。退職後の2002年、アメリカ、オレゴン州に住む弟正徳とアメリカで大きな旅を楽しんだ、アメリカ大陸西部のオレゴン州から正徳の長男の圭太君が住む米国東南部のノースカロライナ州ローリーまで長男の圭太君が買った新居を買見せてもらいに行く旅をした。圭太君の古い家を訪ねたら家じゅうに微かになっているラジオ、ラジオからの心地よい音楽、BGM、が鳴っているのに気がづいた。彼はパソコンで土地のFMラジオ、FM局のWCPEのクラシック音楽を引きこんでかけて暮らしていた。各部屋に配線を延ばしてスピーカーを目立たぬように設置、それでもって家じゅうに音楽が静かに流れるようにしていた。これはいい、と私はすっかり気に入って日本に帰ってからから早速パソコンにアメリカのWCPE局を取り込んだ。私のパソコンから卓上に延ばした外付けスピーカーから大好きなクラシック音楽が何時も流れ、その音楽に合わせて日常のパソコン作業をするのが何よりの楽しみとなり一日中音楽を楽しんでいる。もう20年にもなるが、音楽の種類は問わず、ジャズからクラシックまで、色々のジャンルの音楽が無限に聞ける。WCPEの音楽にとどまらずNHKFMラジオも聴けるし中波のラジオを併用しているので浪花節、邦楽、演歌からJポップまで、パソコンでのCD音楽やFM局の音楽で私のまわりは満たされている。音楽を聞くこと、My BookHome Page作りでパソコンに熱中すること、今の私の何よりの楽しみとなっている。

 

                        6

 

 そして2000年平成128月 関西テレビを退職後の第3ステージ・・・

 伴侶と過ごす第3の人生、20008月から・・・ 20211月・・・これからの日々

 

 神戸で生まれ中国や九州そして神戸に戻って京都で勉強、社会人として大阪で働き、そして住みなれた大阪かを離れて神戸へ戻って来た。20008月 退職後の第3ステージが始まった。

 

 2020年 夫婦が病気とコロナ禍で辛い思いをしたが今残された日々を穏やかに暮らしている。

 神さまの恵みでこれからは静かに過ごせる毎日だ。あと幾つの星霜を重ねれるだろう。

 

 20年近くパソコンに向かいそれを通じてホームページ作りに熱中したが、そのうち

My Book 10No.27 79歳、誕生日を前に思うこと、私はどう生きてきたのか

My Book 8No.40 エイトプロ時代の思い出

My Book 7No.23 ふるさとZIP探偵団制作の思い出

My Book 4No.46 関西テレビ入社からドラマ「どてらい男」迄効の果担当の思い出

My Book 4No.47 関西テレビ時代の制作番組、音響効果の担当者としての思い出

My Book 6 No.11 森光子さんと会食の思い出   など

 

https://hcikeda10.jimdofree.com/ など、アドレスの番号を11、12などと入れ替え、どうぞご覧下さい

 

  3ステージでは私が2000年までのワープロ作業からパソコンでの作業に変えて

その入力に次第に慣れてきて趣味としても My Book 作りに取り組み、Book 1 から

現在 20212 月現在 Book 14 まで書き進み、退職後の一番の楽しみとなっている

 

                              初稿 2021 ( 令和3 ) 223

                                              7

 



一般公開された連節バス「ポートループ」=神戸市中央区三宮町1
拡大
一般公開された連節バス「ポートループ」=神戸市中央区三宮町1
神戸新聞NEXT
拡大
神戸新聞NEXT

 神戸市中央区の三宮と臨海部ウオーターフロントエリアを結ぶ連節バス「Port Loop(ポートループ)」が4月1日から運行されるのを前に、神戸三宮センター街で13日、車両のお披露目があった。全長約18メートルでドアは計三つ。通り掛かった人たちは巨大バスに驚いた様子で足を止め、見入っていた。(初鹿野俊)

 ポートループは観光客をターゲットに、神戸市が都心部と臨海部の回遊性向上や輸送力強化を見込んで事業化。名称や車体などにあしらうロゴマークは市民らの投票で決めた。

 バス停は「三宮駅前」や新港第1突堤基部の「新港町」、「ハーバーランド」など七つ設置。平日19便、休日21便をおおむね30分置きに走らせ、1周の所要時間は50~60分。現在は2台だが、7月には4台に増やす。神姫バス(兵庫県姫路市)が運行を担う。

 一部のバス停には時刻表のほか、バスの現在地や到着時間の遅れなどを表示するデジタルサイネージ(電子看板)を設置。一部のバス停と車内には無料Wi-Fi(ワイファイ)も配備する。

 この日の車両展示は運行開始をPRしようと企画。同市東灘区の公務員男性(28)は、乗り物好きの長男(2)と訪れた。連節バスを写真に収め「ぜひ2人で乗ってみたい」と笑顔で話した。

 運賃は全区間均一210円(子ども110円)。終日乗り降りできる1日乗車券は500円。市バスIC定期券(普通区)があれば追加料金なしで乗車できる。

 20、21日には乗車体験できるプレ運行を実施する。1日乗車券を提示すると、沿線施設の入場料や遊覧船の乗船料が割り引きになるなどの特典が受けられる。

東日本大震災 避難なお4万人超


料理に適量、コクとうまみに